【ウマ娘】もしガチャでサイレンススズカを引いたら|史上最強の宝塚記念馬
ども!マサ公です。
今日の主役はサイレンススズカです。
彼は重賞5連勝を含む6連勝を記録し、宝塚記念を制した逃げ馬として有名です。
6連勝目の毎日王冠でも大逃げを打ち、後に凱旋門賞2着となるエルコンドルパサーと、有馬記念2勝のグラスワンダーを尻目に、影も踏ませず圧勝した馬として、その印象はあまりにも強烈です。
そんなサイレンススズカの略歴を紹介しながら、もしウマ娘のガチャでサイレンススズカをゲットしたらどう育成していくか、私の所見を交えてお話したいと思います。
誕生
彼が生まれた当時(1994年)は、サンデーサイレンス産駒が頭角を現し始める前夜のような時期で、アメリカでG1を6勝した鳴り物入りの高額種牡馬として注目されていました。
そんな父を持つ彼の毛色は栗毛でした。
当時「サンデーサイレンス産駒は黒い馬しか走らない」とう通り相場がまかりとおり、栗毛のサイレンススズカのデビュー前の評判は、毛色ゆえに疑問符が付くという偏見にも似た評価を受けていました。
しかも彼は体が小さく、関係者の目には走る姿が想像しにくい馬だったようです。
性格はとてもヤンチャで元気一杯でしたが、このことは気性に問題がある馬の可能性も否定できませんでした。
デビュー
そして迎えた1997年。
3歳となったサイレンススズカはデビュー戦を迎えます。
彼はデビュー前の調教で頭角を現し始め、一番人気で本番に臨むことになりました。
そして彼はこのデビュー戦で2着に7馬身差をつけて圧勝し、周囲の評価を一変させるのでした。
一躍クラシック候補の一角に名乗りをあげ、彼の忙しい日々がこのときから始まったのです。
難しい個性
まず皐月賞の出走権が欲しいサイレンススズカ陣営は次走に弥生賞を選びます。
2番人気に支持され陣営の期待は嫌がうえにも高まりましたが、このレースで心配された彼らしさが出てしまいます。
なんと発送前にジョッキーを振り落として、ゲートをクグってしまったのです。
ジョッキーは負傷しましたが、馬体検査の結果レースはそのまま続行されました。
しかし外枠発走となったサイレンススズカは、スタート直後に立ち上がってしまい、結局8着に敗れてしまいます。
このエピソードは彼の性格をよく物語っていると思います。
彼は気分が乗らないと激しい性格がもろに出てしまうタチだったようで、この後もたびたびヤンチャさをむき出して陣営を悩ませることになります。
その後サイレンススズカの陣営は目標をダービーに切り替えます。
手始めに500万下の条件戦を圧勝し、そして彼はトライアルレースで1着になって正式にダービーに名乗りをあげます。
迎えたダービーでは、彼は4番人気に支持されました。
しかし控える作戦が裏目に出て、チグハグなレースになってしまい、9着に終わってしまいます。
ご存じの方も多いかと思いますが、サイレンススズカの代名詞と言えば「大逃げ」です。
ダービー後徐々にこの作戦は定着していきますが、神戸新聞杯、天皇賞秋と不発が続き、マイルCSにいたっては15着と大敗してしまいます。
変身、そして6連勝
しかし次走の香港国際カップ5着を境にサイレンススズカに「何か」があったようです。
それはこのときから鞍上に迎えた武豊騎手との相性によるものなのか、それとも海外遠征で彼の心境に何らかの変化があったのか。
結論は定かではありませんが、年があらたまり1998年になるとサイレンススズカは変身します。
オープン特別のバレンタインステークスを皮切りに、3月にGⅡ中山記念を逃げきって初重賞のタイトルを手中に収めると、その後小倉大賞典、金鯱賞を圧勝。
既にこの年の大目標を天皇賞秋と定めていた陣営は、金鯱賞後放牧を予定していました。
思えばデビュー以来、サイレンススズカは休みらしい休みを取っていません。
この時期彼に一番必要だったのは休養でしょう。
金鯱賞後に休養をとってブッツケで天皇賞に挑戦したとしても、彼の実力からすれば充分勝利を見込めたと思います。
ここで決断があれば、サイレンススズカの悲劇が避けられたのではと惜しまれてなりません。
ウマ娘で、そんなサイレンススズカを育成する機会に恵まれて、同じローテーションを体験したとします。
トレーナーとして彼を宝塚記念に出走させるか否かを決定する責任を任されたら、私は迷いなく回避を決断するでしょう。
体力ゲージに気をつけながら、たっぷり休暇を与えて失敗確率の高いトレーニングはしません。
スパルタトレーニングを施して栄光を目指すよりも、彼に心も身体も健康でいてほしいからです。
無理をさせなくても、軽く殿堂入りするくらいの実力は、確実に備えた「ウマ娘」なのですから。
サイレンススズカは宝塚記念のファン投票で6位に推され、陣営は出走を決定します。
しかしこの宝塚記念、続いて毎日王冠への出走が、彼の伝説を揺るぎないものにしたとも言えるでしょう。
レースでは例によって大逃げを打ち、彼はステイゴールド、エアグルーヴを抑えて優勝し、5連勝を達成して念願の初GⅠタイトルを手にします。
余談になりますが、私があえて史上最強の宝塚記念馬を挙げるとしたら、迷いなくこのサイレンススズカを推します。
次走の毎日王冠の結果を知れば、その理由を納得される方も多いでしょう。
冒頭でも触れましたとおり彼は毎日王冠で、彼にヒケをとらない実績を残した名馬エルコンドルパサーと、グラスワンダーを子ども扱いにしたのです。
私は中継映像を目の当たりにしましたが、後にも先にもこんな衝撃的に強い馬を観たことがありません。
勝ちっぷりの強烈さで言ったら、彼の右に出る馬はいないでしょう。
本番・・・しかし
他の陣営はサイレンススズカの強さに恐れをなしたのか、次走本番の1998年天皇賞秋は参加頭数が12頭と、少ないメンバーでのレースになりました。
嫌がうえにも彼に人気が集中します。
そのプレッシャーだけでなく、デビュー以来ここまでほぼ休みなく使われてきて、彼は表に見せない疲労を蓄積していたのでしょう。
そしてサイレンススズカは、ライスシャワーのいる天国への、永遠のフライトに旅立ったのです。
まとめ
サイレンススズカは一言でいうと、「化けた最強馬」であるというのが私の印象です。
デビュー以来チグハグとしていた彼の戦歴は、香港遠征を境に一変します。
その原因は、やはり武豊騎手との相性にあったのではないかと私は推測します。
馬当たりの柔らかい優しい性格の武騎手になだめられ、彼の性格の激しい部分が安定していったのではないでしょうか。
また彼のほぼ年中無休のローテーションには、労をねぎらいたい気持ちでいっぱいになります。
もっと休み休み走らせてあげたかった。
でももうそれを言うのはよしましょう。
本当にお疲れさまでした。
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