ウマ娘「天皇賞馬ライスシャワー」物語|宝塚記念で散った稀代の名ステイヤーの異名は刺客
ども! マサ公です😊
今日はライスシャワーの思い出を書きたいと思います。
この馬の別名は「刺客」でした。
ミホノブルボンや、メジロマックイーンの偉業達成を阻止した実績から、あまりありがたくない異名をつけられてしまったようです。
この馬は競馬でいうところのマラソンレースに当たる、3000m以上のレースに出て負けたことが有りません。
父親はリアルシャダイという種牡馬で、筋金入りの長距離血統でした。
このことからライスシャワーは稀代の名ステイヤーとして、歴史にその名が刻まれることとなったのです。
そんなライスシャワーの、私にとっての思い出をつらつらと書いてみます。
お付き合いいただければ幸いです。
出会いは1993年の天皇賞春から
実は私はライスシャワーのデビューから3歳にかけての活躍を、実際の中継映像などで観ていません。
又聞きになりますが、新馬戦に買ったもののクラシック前はさしたる実績がなく、そして迎えたダービー。
単勝16番人気を跳ね返し、ミホノブルボンの2着に入り一躍脚光を浴びました。
秋には2番人気で菊花賞を迎え、三冠のかかるミホノブルボンを差し切って優勝してしまったのです。
この時から栄光を目指すスターホースの、道を邪魔するイメージがつきまとい始めました。
そして迎えた1993年、4歳春の天皇賞。
この時はメジロマックイーンの同一レース3連覇がかかっていました。
私はそれまでニュースでオグリキャップなどの活躍に触れ、競馬に関心はあったのですが、馬券を買ったのはこの時が初めてでした。
そしてこのレースが、ライスシャワーとの初めての出合いとなりました。
私は競馬のケの字も分からず、友達に勧められるまま印どおりに、ライスシャワーからの馬連を買ってみました。
結果はまたもメジロマックイーンの栄光を阻止して、ライスシャワーが優勝してしまいました。
このときのテレビ放送の実況で、アナウンサーが初めて「刺客」という表現を使い、「 刺客ライスシャワー」というイメージが定着していったのです。
ちなみに私の馬券の結果は、生まれて初めて買った馬連が的中し、100円が340円ほどになったかと記憶しています。
儲けは40円ほどでしたが、私はビギナーズラックを体験することができました。
当たったことがとても嬉しくライスシャワーと言う馬をたまらなく好きになりました。
しかしこのレースを境に、ライスシャワーは長いスランプのトンネルに迷い込んでしまうのです。
スランプ
トンネルの始まりがその年の秋、初戦のオールカマーでした。
1番人気に支持されたこのレースでは、韋駄天ツインターボが大逃げをかまし、ライスシャワーは追走が間に合わず3着に沈んでしまいます。
私はこのレースを、自信が持てず傍観していました。
そして単純に「ツインターボってこんなに強い馬だったんだ」と思い込み、いつしかライスシャワーのことを忘れてしまっていたのです。
そして本番の天皇賞秋で、ツインターボ流しで大勝負してしまい、競馬の怖さを知るのでした。
ライスシャワーはこのレースでも6着に沈み、スランプは続きます。
私は大負けに縮み上がってしまい、この後のジャパンカップ、有馬記念の彼の凡走の被害を受けずに済みました。
ライスシャワーは迎えた1994年、春の天皇賞を目指して京都記念、日経賞と僅差の競馬をしましたが、その後故障が判明してしまいます。
このとき真剣に彼の引退種牡馬入りが検討されましたが、実績不足ということで現役続行が決定されたのです。
思えばこのとき種牡馬入りが決定していれば、例え実績の乏しさゆえに種牡馬としての人気がなくとも、彼はそれなりに幸せな一生を送っていたことでしょう。
私の方はツインターボのトラウマが延々と続き、ナリタブライアンが華々しく活躍する、その年の春のクラシック戦線をただ眺めていました 。
その秋にトラウマがようやく癒え、馬券を買い始めたところ、なぜかこの年は絶好調だったのです。
その当時の私の馬券スタンスは、ほどほどの人気で来そうな馬が、低評価を受けているレースを発掘し買うというものでした。
ある日曜日、その日は競馬をやらないつもりで家に届いたスポーツ新聞を眺めていたところ、これはこの馬が来そうだと直感したレースがありました。
いまから競馬場に行っても締め切りに間に合うか、という時間であったにもかかわらず、私は競馬場に駆けつけました。
そして買った馬券が的中するといった具合だったのです。
復調の兆し
故障後のライスシャワーは想定以上に回復が早く、私の好調と重なる時期に復帰してきました。
そして復帰初戦の有馬記念。
好調に酔いしれていた私は彼のことを無視していました。
その日の平場のレースで、例の狙い方で的中しプラス収支となったので、有馬記念は遊ぼうと決めていたのです。
結果はナリタブライアンが優勝し、女傑ヒシアマゾンが2着でした。
私はナリタブライアンの単勝を買っていたので、他の馬の順位には関心がありませんでしたが、ライスシャワーは密かにこのレースで3着に入っていたのです。
復活!!天皇賞春
そして迎えた1995年の天皇賞春。
このころには私の好調の波はどこえやらと消えてしまい、再び競馬の難しさが身にしみている時期でした。
ライスシャワーはこのレースで見事に二年ぶりの復活をとげます。
冒頭にも書きましたが、彼はこのレースを含めて3000m以上のレースを全勝しており、あらためて血統の裏付けどおりのステイヤーであることが証明されたのでした。
私はこの復活劇を予想だにせず、いっしょにお祝いする気持ちになれなかったのは残念ですが、「ライスシャワーは個性的な馬だったなあ」と今も懐かしく心に蘇ってきます。
今思えばこのタイミングこそ、絶好の引退の時期だったと悔やまれてなりません。
宝塚記念、そして「帰らぬ人」に
ライスシャワーの陣営は次の宝塚記念の際、事前のファン投票で1位に推されたことなどを理由に出走を決定します。
そして彼は「帰らぬ人」となったのです。
それはあまりにも悲しすぎる結末でした。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
まとめ
ライスシャワーはクラシックまでの活躍は地味でしたが、ダービー2着で一躍脚光を浴びます。
そしてミホノブルボン、メジロマックイーンという錚々たる名馬の栄光を阻止し、「刺客」というありがたくない異名を冠せられてしまいます。
「スランプの時期に引退を決断していれば」と惜しまれる過去はありますが、現役続行を実らせて再びの栄光を拝したのは、さすがに名馬と言わざるをえません。
この絶好の引退のチャンスを見送り、彼が悲運にみまわれたことは、きっと私たちの心に強烈な印象を残して、永遠に生き続ける定めの馬だったからなのだと思いたいです。
実際私の胸の中には、そのあと数々の名馬が去来しましたが、一番鮮明に焼き付いているのはやはりライスシャワーです。
彼の魂よ!永遠なれ
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